調査研究
勇払基線のはじまり
明治6年(1873年)、開拓使の三角測量隊が、現在の苫小牧勇払ふるさと公園の土地の一角とむかわ町田浦4線国道付近の土地に三角測量のための基点を設置しました。
これが、勇払-鵡川間14,860.26461959m(3回測量平均値)を測る勇払基線のはじまりです。
勇払基線に先立ち、明治5年(1872年)3月に、工務省の測量司がイギリス人技師の指導を受けて、東京で小規模な三角測量を実施しておりますが、勇払基線は、北海道広域を対象とする本格的な三角測量の基線であることから、やはり、勇払基線こそが、日本で初めて本格的な三角測量が行われた基線であると言うことができます。
勇払基線は、「正確な北海道地図作成のため欧米の近代測量技術で行われた三角測量基線の位置を示す遺産であり、わが国における基線測量の嚆矢である」として、公益社団法人土木学会の平成28年度土木学会推薦土木遺産「開拓使三角測量基線-勇払基線(勇払基点、鵡川基点)函館助基線(一本木基点、亀田基点)」に選定されています。
開拓使は、当初、本府札幌の建設に注力しておりました。黒田清隆が開拓次官に就任すると、開拓使十年計画が推し進められ、北海道の地質調査と測量調査が、開拓事業の基幹として位置付けられました。
黒田は、計画の遂行と将来を担う優れた人材育成のために、アメリカ第18代グラント大統領の承諾を得て、農務長官ケプロン(Horace.Capron)を開拓使顧問に招き入れ、さらに、明治5年(1872年)にアメリカ陸軍大尉ワッソン(James.R.Wasson:明治7年3月転属)、明治6年(1873年)にアメリカ海軍大尉デイ(Murray.S.Day:明治9年4月解雇)を招聘し、明治6年から、ワッソンを測量長として、三角測量による北海道地図の製作がスタートしました。開拓使の測量事業は、明治9年に中止となり、未完成の北海道実測図が刊行されます。
この事業を通じてワッソンとデイから測量を学んだ、荒井郁之助、福士成豊、野澤房迪、奈佐 栄、関 大之、寺澤正明ら日本人技師は、明治期を通じて測量、気象、教育の場面において指導的な立場を担い、我が国の近代化に貢献する多数の人材が輩出されました。
ユウフツ越え 美々舟着場跡
北海道がまだ蝦夷地と呼ばれていたころ、太平洋岸と日本海岸を結ぶ内陸の交通路が開かれていました。これはユウフツ(現在の勇払)を起点に勇払川を舟でさかのぼり、ウトナイ湖、美々川、美沢川を経て、陸路でシコツ(現在の千歳)に入り、さらに舟で千歳川を経て、石狩川に達するルートで「ユウフツ越え」「シコツ越え」と称し、東西蝦夷地を結ぶ重要な交通路でした。
この行程は「ユウフツよりビゝ迄五里、ビゝより千歳川迄弐里、千歳川より石狩迄廿五里」(東蝦夷地各場所様子大概書)を要し、ほぼ3泊4日の行程でした。
「ユウフツ越え」の史実を裏付ける資料には、昭和41(1966)年、苫小牧市沼ノ端の旧勇払川右岸から発掘された北海道指定文化財 「アイヌの丸木舟及び推進具(苫小牧市美術博物館蔵)」があります。
さらに平成4(1992)年、北海道埋蔵文化財センターによって調査された新千歳空港建設に伴う「美々8遺跡低湿地部」からは、江戸時代の探検家松浦武四郎(1818-1888)が記述している「美々舟着場跡」が調査され、大量の木製品とともに丸木舟、板綴舟をはじめ櫂、棹などの舟具が出土しています。
特に櫂にはメカジキ(シリカップ)の彫刻が施されており、こうした出土品からアイヌ民族が板綴舟に乗り、美沢川、美々川、ウトナイ湖、勇払川を下り、太平洋に出る路を使用していたことが実証され、現在のように交通網が整備される以前には、この地域が交通の重要な拠点として機能していたことが理解できます。
令和元年11月18日(土木の日)に国道36号沿いに「ユウフツ越え」の説明看板が設置しました。
苫小牧市字美沢70-1地先 美沢川河川敷地